北欧的であり続けるという選択
現在のフィンランドの土地は、歴史的には19世紀初めまでスウェーデンの一地方でした。1809年、ナポレオン戦争の最中にスウェーデンがロシアに敗北すると、ロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランド大公国を建設し、自らがフィンランド大公を兼任することになりました。ロシア帝国内の中でありましたが、この時はじめてフィンランドは「国家」になります。その時、この地において支配者側にあったスウェーデン語住民の中から、独特なナショナリズムが生まれてきました。
それは、将来起こるロシア化に対抗するには、エリートと一般大衆の乖離を避ける必要があり、その為に言語をエリート側のスウェーデン語から大衆側のフィンランド語に代えていくべきだというものでした。ロシア化されずに「北欧的」であり続けるという選択が、「自分自身」であり続けるという認識の上にたって、フィンランドでは積極的に「北欧」が選択されました。その後、19世紀末から1917年の独立までの、自治を侵害するロシアからの抑圧が激しくなった時代に、さらにフィンランドとしてのナショナリズムが鍛えられました。第2次世界大戦において2度にわたってソ連との戦いを余儀なくされ敗戦はしたものの、占領は免れフィンランドは民族および国家としての独立を守り通しました。
フィンランドとガラスの歴史
フィンランドにおけるガラスの歴史は他国に比べると遅く、始まりはスウェーデン領時代の1748年に遡ります。当時既にスウェーデンではガラスの生産が始まっており、燃料となる木材を求め、森林資源に恵まれたフィンランドに工場を作りました。その後次第に現在のフィンランドがスウェーデンのガラス生産の半分を担うようになります。フィンランドでは主に薬やお酒を入れるガラス瓶を作っていましたが、19世紀初頭にロシアに併合されると多くの市場を失い、次に生産が活発になるのは、独立を遂げる1917年を過ぎてからでした。
1937年のパリ万博ですでに建築家として有名になっていたアルヴァ・アアルトは、自身の設計したパヴィリオンにベース「アアルト」を展示し、世界的に高い評価を受けます。これらをきっかけにフィンランドでは、もはや私たちのガラスは、スウェーデンのガラスではないという自国意識が芽生え始めました。その後、第2次世界大戦後に材料不足に陥り50年代初頭までガラス生産は一時停滞しますが、それでもデンマークの家具やスウェーデンの陶器など、他の北欧諸国のデザインとともに“北欧デザイン”という名のもとにフィンランドのガラスはそのコンセプトを体現する役割を担い始めるのです。
建築や家具などのほかのデザインと同様に、50年代はフィンランドのガラスにとっても、黄金期にあります。ごく一般的な家庭で毎日使うものにこそ、機能性だけでなく美しさが必要だという考えも浸透し始めます。さまざまなデザインが生まれ、国際的なコンペでフィンランドの作品が多数入賞し、フィンランドガラスがひとつのブランドとして国際的に認知されるまでになっていきます。この時期を代表するデザイナーには、カイ・フランク、ティモ・サルパネヴァ、タピオ・ヴィルカラらがいますが、面白いのはこの人たちが皆ガラスデザインの正式な教育を受けていないことです。カイ・フランクは家具デザイナー、タピオ・ヴィルカラは彫刻家、ティモ・サルパネヴァはグラフィックデザイナーでした。
毎日使える自由なうつわ
ガラスデザインの教育を受けた者が、デザイナーとして台頭するには60年代まで待たなければなりません。カイ・フランクが自ら教鞭をとっていた美術大学で、陶芸科の学生たちにガラス実習を受けさせるようになって以降です。初期の学生にはオイヴァ・トイッカ、ヘイッキ・オルヴォラなどの後にイッタラで活躍するデザイナーたちがいます。
教育の整備だけでなく、カイ・フランクのフィンランドにおける功績は計り知れません。カイ・フランクはアラビアでも多くのデザインを残しましたが、戦後の市民生活の混乱から、福祉国家を目指していく過程において「ディナーセットを粉砕せよ」というスローガンのもと、自由な組み合わせにより、食卓での用途を網羅するシリーズ食器として「ティーマ」(発表当時のシリーズ名はキルタ)を作りました。食べる、飲むだけでなく、調理や保存、片づけにおいても使い勝手を重視したシリーズで、その形をガラスで引き継いだ「カルティオ」とともにフィンランドの食器棚の定番となっています。これらは現在も時代に合わせ、食器洗浄機に耐えられるよう改良を施すなど、当初の理念を受け継ぎながら、生産され続けています。
Aino Aalto
/ アイノ・アアルト
建築家アルヴァ・アアルトの妻であり、自らも建築家、デザイナーであったアイノ・アアルト。同心円状の凹凸がつき、持った時に滑りにくいグラスは、ミラノ・トリエンナーレで金賞を受賞しました。
1932 / Iittala
Aino Aalto アイノ・アアルト
Kaj Franck
/ カイ・フランク
アラビアとヌータヤルヴィのアートディレクターを兼任し、無駄をそぎ落とし、だれもが使えるデザインを多く残しました。社会へもたらした功績から、「フィンランドの良心」と称されています。
1958 / Iittala
Kartio カルティオ
1981 / Iittala
Teema ティーマ
Heikki Orvola
ヘイッキ・オルヴォラ
ヘイッキ・オルヴォラの最も多産な経歴は60年代後半に始まり、ガラスや陶器、エナメル、鉄などさまざまな材料で働きました。2002年にフィンランド大統領は、デザインにおける彼の業績をたたえ、名誉教授の称号が与えられました。
1997 / Arabia
24h
Timo Sarpaneva
ティモ・サルパネヴァ
1950年、イッタラに入社。
1956年に発表したiシリーズという名の日用器シリーズのマークが現在のイッタラのロゴとなっています。
1971 / Iittala
Sarpaneva サルパネヴァ
Oiva Toikka
オイヴァ・トイッカ
1956年にアラビアのアート部門に入社します。新技術によりデザインの可能性を広げ、同時にそれがデザイン上の特徴にもなっていきます。カステヘルミは成型のつなぎ目を目立たなくして、量産出来るようデザインされたものでした。
1964 / Iittala
Kastehelmi カステヘルミ
Tapio Wirkkala
タピオ・ヴィルカラ
ガラスだけでなく、木工家具やお札などのグラフィックも手掛けています。彼がデザインしたウォッカ「フィンランディア」のボトルとも通づる氷のようなグラス「ウルティマ ツーレ」は“極北の地”を意味しています。
1968 / Iittala
Ultima Thule ウルティマ ツーレ