世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家「グスタフ・クリムト」

2018年に没後100年を迎えたグスタフ・クリムト。

クリムトは1862年7月14日、ウィーン郊外のバウムガルテンで生まれました。父はベーメン地方(ボヘミア)出身で、8歳のころ彫金の職人であった両親と共にウィーンへと移ってきた彫刻師、母は若いころには歌手を目指したこともある女性でした。クリムトを含む7人の兄弟姉妹に見られる豊かな芸術的感性はこの両親から受け継がれたものであり、長男であるクリムトが最もその才能を開花させていくことになります。

クリムトの芸術家としての出発点

クリムトの家は貧しく、一家はクリスマスにも十分なパンが無いほどでした。そのような環境では高等教育を受けることはとてもできず、長男であるクリムトには一日でも早く生活の糧を稼ぐ義務がありました。クリムトが14歳の時、彼は奨学金を得てウィーンのオーストリア芸術産業美術館付属の工芸美術学校に入学します。その後、1年遅れで同じ学校に入学してきた弟のエルンストとともに、空き時間には写真をもとに肖像画を描き、1枚6グリデン(当時レストランの定食が1グリデン)で売るなどして、家計を助けました。

クリムトと弟は、また美術学校の教授であったフェルディナンド・ラウフベルガーの指示のもと、建築装飾の仕事にも従事しました。当時、ウィーンでは国を挙げてオーストリア・ハンガリー帝国の首都にふさわしい街づくりが進められていました。撤去された中世以来の城壁のあとは近代的な環状道路となり、その環状道路に沿って多くの公共建造物や、貴族、ブルジョワたちの豪邸が建設されていきました。ラウフベルガーはそうした建築物の装飾を請け負う、いわゆる上流階級のお抱え画家でした。一家の生活費を稼ぐため、中世さながらに王家や貴族、富豪のお抱えになり、その肖像画や装飾画を描く宮廷画家のような仕事が、クリムトの芸術家としての出発点でした。

こうした職人としての生活はクリムトが18歳の時に、師でもあり親方でもあったラウフベルガーが亡くなってからも続き、それから3年後、工芸芸術学校を離れたクリムトは、同じくラウフベルガーの下で学んでいたフランツ・マッチュと3人で、芸術をビジネスにする「芸術家コンパニー(キュンストラー・コンパニー)」を設立します。この会社は大変繁盛し、1888年にはウィーンにおける演劇の殿堂ブルグ劇場の装飾壁画を完成、クリムトは金の功労十字勲章を授与されるなどの名誉も得ました。また、1890年にはウィーン美術史美術館の階段ホールの内装も請け負います。この時クリムトは弱冠28歳。国家をパトロンとした若者の将来は順風満帆であるかのようでした。

芸術家コンパニーの解散とウィーン大学大講堂天井画事件

しかしその2年後の1892年6月に父が他界、12月には弟エルンストも若くしてこの世を去ってしまい、この不幸を機に「芸術家コンパニー」は解散してしまいます。上流階級お抱えの画家として生きていくことに飽き足らなくなり始めていただけに、クリムトの芸術観と画風もこのころから大きな変化を見せていきます。

「芸術家コンパニー」解散後、クリムトとマッチュはその実績が買われ、オーストリア教育省からウィーン大学大講堂の天井画の依頼を受けていました。ウィーン大学の教授たちは、ルネサンス以来の伝統的な絵画を期待していたのですが、クリムトがそこに描き出したものは、理知的なものを一切拒否するかのような、死の影が漂う男女が浮遊する姿でした。クリムトが描いた天井画はやがて教授たちの猛反発にあい、数年後この作品は排斥されてしまいます。このとき、クリムトはこう語っています。

「自由であろうとして、私は国のあらゆる援助を拒否した。」

こうして、師ラウフベルガーから受けた古典的なリアリズムの影響を脱し、神秘性を帯びた象徴主義的な色彩の濃い画風へと移行していったクリムト。ウィーン美術界から孤立しているかのようにも見えましたが、しかし次第にウィーンに住む若い芸術家たちの注目を浴び、やがて彼らのリーダー格へとまつりあげられていきました。

ウィーン分離派と黄金の時代

扇子を持つ女性 | Lady with Fan <1917>

扇子を持つ女性 | Lady with Fan <1917>

プリモビアンコ アートコレクション マグ ペア

1897年クリムト35歳の年、ウィーンの若手芸術家を中心に、展覧会への参加を牛耳る芸術組合に対する反乱がおこりました。彼らはより自由な作品発表の場を求めて「オーストリア造形美術家連盟~ウィーン分離派」を結成。クリムトはこの新しいグループの初代会長に就任します。クリムト率いる分離派は、「総合芸術としての展覧会」という考え方を打ち出し、8年の間にその考えに基づいた展覧会を23回も開催することになります。そして、クリムトは全く独自の画風を完成させていきます。「黄金の時代」ともいわれるこの時期に、生涯でもっとも充実した作品の数々が生み出されました。

分離派の活動の拠点とした分離派館の1室の壁面を堂々と飾った大作「ベートーヴェン・フリーズ」は金箔をふんだんに使い、目もくらむような幻想的世界が描かれており、そこには退廃的で挑発的な女性たちがあらわに表現されており、当然のごとく、クリムトのこれらの作品は強い非難に晒されることとなります。

クリムトが描き出す官能的な空気は、そのまま当時の世紀末都市ウィーンを覆う空気でもありました。美と音楽の都として知られるウィーンはまた、中世から近代に至るまで、ヨーロッパの名家ハプスブルク家の華麗な魅力を備えた帝都としてその歴史を育んできました。1869年に60万人だったウィーンの人口は、1900年には200万を超すまでに至り、ウィーンの文化は絶頂を極めつつありました。しかし首都ウィーンに流れ込む莫大な富は、貴族やブルジョワ、勃興しつつあった中産階級だけに集中し、音楽会や舞踏会に浪費されており、この繁栄はいつ崩れるかわからない危うさを孕んでいました。

クリムトが生きた時代のウィーン

1873年にはオーストリアの国力を誇示すべくウィーン万国博覧会が開かれ、1879年には皇帝フランツ・ヨーゼフ夫妻の銀婚式が、1898年には皇帝即位50周年が盛大に祝われ、ハプスブルク帝国の終わりなき世を思わせましたが、領土内には、異民族による独立運動の火種がくすぶっており、また、僅かな金銭のために女性や子供までもが日に15時間以上も働くというほどに貧富の差は拡大し、自由主義者や社会主義者たちの不満が一触即発の感を呈していました。さらに建築ブームで大量発生した成金たちは、ありあまる金を武器に上流階級に取り入りましたが、万国博に沸く1873年には株式市場の暴落に端を発する深刻な不況が襲い、オペレッタやワインに酔いしれる貴族たちの間にも刹那的な空気が蔓延していました。

これに先立つ1867年には皇帝の弟でメキシコ皇帝の位にあったマキシミリアンが処刑され、1889年には皇帝の一人息子で、皇位継承者であったルドルフが愛人と謎の情死を遂げ、1898年には華やかな祭典の余韻が冷めやらぬ数か月後、シシィの愛称で国民から親しまれていた后妃エリザベートが旅先のジュネーブでイタリアの無政府主義者によって暗殺されました。そして、ハプスブルク家の呪われた歴史の終焉が、ルドルフに代わる皇位継承者であった大公フェルディナントの暗殺であり、これを機にヨーロッパは第一次世界大戦という破局に向かっていくのでした。

クリムトが生まれ、画家として世に出て行った時期のウィーンは、まさに世紀末としての雰囲気がぴったりの街でした。クリムトはたとえ無意識にせよ、6千万の国民を擁したハプスブルク王朝の緩やかな崩壊を予感していたのでしょうか。クリムトの描く女性や人物像には、しばしば孤独、死を思わせる不吉な予感、憂愁な雰囲気が見て取れます。彼の作品は当時の人々を戸惑わせ、ウィーン大学の教授は「醜い芸術」であると切って捨てました。しかしその没後100年の月日が流れた今、彼はもっとも人気の画家の1人となっています。退廃ではなく、時代の終焉と新しい時代の胎動をもっとも早く、もっとも鋭く察知した画家であったのです。

けしの野 | Flower Garden ≪1905-1907≫

けしの野 | Flower Garden <1905-1907>
クリムトは晩年風景画家としても円熟味を増していきました。恋人エミーリエと毎夏アッター湖で過ごす穏やかな落ち着いたひとときに描かれた数々の作品は、きらびやかな肖像画や壁画とは趣を異にしており、画家のもうひとつの静かな内面を伺わせます。自然の光を浴びた小さな花たちの、瑞々しい生命力が画面いっぱいにあふれています。

プリモビアンコ アートコレクション マグ ペア クリムト 「けしの野」

接吻 | The Kiss <1908>

晩年のクリムトはベルギーの首都ブリュッセルでベルギーの若い実業家アドルフ・ストクレが、ウィーンの建築家ヨーゼフ・ホフマンに依頼したストクレの自邸の建築の内部装飾に精を出します。

進歩的なデザイナー集団であった「ウィーン工房」の中心的デザイナーのヨーゼフ・ホフマンは、工房のメンバーでもあり友人でもあったクリムトに協力を依頼し、クリムトは白大理石や、銅版、銀板、釉薬タイルなどを用いたモザイク画で「生命の樹」などを壁面に描きました。それらはあの分離派館の壁画に見られた攻撃的ともいえる毒々しさや、おどろおどろしさは影をひそめ、生命への賛歌が謳われていました。

プリモビアンコ アートコレクション マグ ペア クリムト 「接吻」

ゲーベル(GOEBEL) クリムト 接吻 66488602 プレート 20cm
ゲーベル(GOEBEL) クリムト 接吻 66879826 デスククロック(ガラス時計) H32cm

この時期に描かれた「接吻」は名実ともにクリムト芸術の頂点を示す傑作となります。金色の光の中でひとつに溶け合う男女の姿が描かれたこの作品は、発表と同時に政府に買い上げられました。クリムトの紡ぎ出した甘美な世界は、ついに権威を跪かせたのでした。

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