ポーリッシュポタリー「ボレスワヴィエツ」

2018年は、ポーランド独立宣言より100周年、2019年はポーランドと日本が国交を樹立して100周年の記念の年にあたります。今月、11月11日には首都ワルシャワで独立記念パレードも開催されました。

ポーランドは歴史上、何度も、周辺諸国により侵略を受けてきました。しかし、そのたびに人々はそれらに屈せず蜂起します。ポーランドの民族自立の戦いの精神は、中世から続く、名誉と自由のために戦うという抵抗の経験が積み重なり形成されています。

ポーリッシュポタリー(ポーランド陶器)「ボレスワヴィエツ」

ドイツとチェコの国境にほど近い街・ボレスワヴィエツ。近くを流れるブブル川とクフィサ川の恵みを受け採取される天然の粘土を材料に、古くは14世紀頃から陶器が製造されてきたという場所で、この土地で作られる陶器が「ボレスワヴィエツ」と呼ばれています。

このボレスワヴィエツも、当初はドイツからの移民たちにより製造され、ドイツ人たちがいなくなった後、残ったポーランドの人々によって受け継がれていったという長い歴史があります。

街の名前を冠した、ボレスワヴィエツを代表するメーカーの一つ、ザクラディ・チェラミチネ・ボレスワヴィエツ社。同社のデザインはすべて、ポーランドの女性たちによってポーランドの自然や、植物にインスピレーションを得てデザインされています。

ポーランド独立100周年を記念した限定セット“インディペンデント”が製造され、ポーランド大統領にシリアル番号1番のセットが手渡されました。(※1)

クリーム色を帯びた優しい色合い。そこに描かれるのは伝統的なスタンプ押しや、筆を用いたフリーハンドの可愛い模様たち。ハンドメイドの体温を帯びた器たちに、毎日を豊かにしてくれる魅力を感じずにはいられません。

今回のラグジュアリーセレクションでは、そんなボレスワヴィエツを形成してきたポーランドの歴史をご紹介します。

ポーランドの建国から独立までの不屈の歴史

ポーランドの国としての歴史は約1000年程と言われています。大平原に広がるこの国は、南をカルパチア山脈でチェコスロヴァキア、北はバルト海を挟んで北欧の国々、西はオーデル川でドイツ、そして東には深い森で旧ソ連の共和国であったリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアが隣接しており、ヨーロッパで戦争が起こるとき、必ず戦場と化す宿命を負っていました。

現在のポーランドに相当する領域で文化を形成していた大半の人々は、元から居住していたか、あるいは様々な地域から移住してきたバルト人、トルコ人、サルマタイ人、スキタイ人、ゲルマン人、そしてスラヴ民族の祖先であるプロトスラヴ人の諸部族であったと考えられています。ゲルマン人は原住地であるスカンジナビアと北ドイツから拡大・移住し、数世紀をかけてポーランド地域を通過して南方、東方へと移り、一部が同地域に残りました。

11~12世紀の初期のポーランド王国は神聖ローマ帝国に対抗し、13世紀以降はドイツ騎士団や、モンゴルからの侵攻、迫害を受けたユダヤ人の流入など混沌とした時代が続きましたが、キリスト教に改宗することにより、キリスト教の西欧に認められ、ヨーロッパ文化圏の仲間入りを果たしました。初期の国家は13世紀には分裂により崩壊しましたが、その後の統合運動で覇権国としてのポーランド王国の礎を築きました。

1385年から1569年にかけて、ポーランドは、リトアニア、ボヘミアおよびハンガリーの王朝であるヤギェウォ朝の統治下で連合王国を形成しました。この王朝連合の創始者はポーランド王をかねたハンガリー王ラヨシュ1世の娘と結婚したリトアニアのヨガイラ大公でした。この4カ国の提携はポーランド人、リトアニア人双方に大きな利益をもたらしました。

16世紀以降、ポーランドは何世紀にも渡りクリミア半島にあった国家のタタール民族と戦争状態になり、この時期、南東部に住む300万人以上がクリミア・ハン国によって拉致され、奴隷として使役されたと言われています。ポーランド・リトアニア連合王国は国王に男子の相続人が居なくなったことにより、共和国として国王が世襲貴族により選挙で選ばれる選挙王制に移行していましたが、18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、ポーランド継承戦争(1733年 – 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになりました。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドの衰退をみて1772年、1793年、1795年の三度に渡ってポーランド分割を行いました。その結果、ポーランドの王国は完全に3国に併合しつくされ、ポーランド王国は滅亡してしまいました。

ナポレオン戦争中の1807年にナポレオンによってワルシャワ公国が建設されましたが、その実態はフランスの衛星国に過ぎませんでした。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させました。ポーランドの民族主義者たちは名ばかりの王国を真に独立させる事を目指して運動と蜂起を繰り返しますが、その度にロシアに鎮圧されました。ポーランドの独立を恐れたロシアは王国におけるポーランド語の使用を制限してロシア化政策を推し進めましたが、それでも次第に独立を求めるポーランド人民族意識は高まっていきました。

第一次世界大戦中の1917年にロシア革命、1918年にドイツでも革命が起きると、2国はポーランドの領有権を放棄し、ポーランドは1918年、近隣諸国による100年以上の支配からの独立を果たしました。11月、ドイツと対戦して収監されていたユゼフ・ピウスツキが釈放され、彼を国家元首とするポーランド共和国の独立が宣言されました。

1935年にピウスツキが没した頃には、西のドイツではヒトラー率いるナチスが政権を握っており、ポーランドにとっても脅威となっていました。1939年8月、ドイツ-ソ連間で独ソ不可侵条約が結ばれ、両国によるポーランド侵攻は黙認の末行われ、イギリスとフランスは直ちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発します。そして9月17日には、ソビエト連邦がポーランド東部に侵攻して、1か月足らずでポーランドのほとんど全土が分割占領されてしまいました。

ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられ、ソ連の秘密警察はポーランドの軍人、将校、官僚など2万1千人をこえる捕虜を射殺しました。また中世のポーランド王国の下でヨーロッパやロシアから数多くのユダヤ人が流入しており、ポーランドはヨーロッパでも最大規模のユダヤ人を抱える国でしたが、彼らはアウシュヴィッツなどの強制収容所に収監され、1944年までにユダヤ人人口の300万の約9割が殺害されるホロコーストが起こりました。

ナチスドイツとソビエト連邦による侵攻によってポーランドは瓦解し、ソビエト連邦軍が最終的な占領者となり、ポーランド人民共和国を樹立しました。1945年5月8日から1989年9月7日までは共産主義体制となっていましたが、1989年9月7日に共産党政府は倒され、ポーランドは議院内閣制共和政体を敷く民主国家へ、そして1999年にNATO加盟、2004年にはEU加盟と、欧州への復帰を果たしました。

どこか懐かしさを感じる器「ボレスワヴィエツ」

ポーランドは伝統的な親日国としても知られています。日本研究や日本語教育も盛んに行われており、ボレスワヴィエツが遠い異国の器でありながら、なぜか私たち日本人にとって懐かしく、和食器に通じるところがあると感じるのも少なからず影響しているのかもしれません。

今回、ル・ノーブルオリジナル企画品として「ジャパニーズティーカップ&ソーサー」が登場しました。昔ながらの製造方法を大切にしているボレスワヴィエツ。3000にも及ぶ多くのデザインと、近代化された工業製品のように完全ではない人の手による味わいこそがこのブランド最大の魅力です。素朴で懐かしく、そして可愛いボレスワヴィエツの器をぜひお楽しみください。