ヘレンド開窯190周年

ヘレンド窯のはじまり

17世紀ごろまで、ヨーロッパにおいて磁器は極東から船ではるばる運ばれてくる中国の特産品であり、何世紀にもわたり磁器焼成の実験が繰り返されていました。1705年、ヨハン・フリードリヒ・ベドガーが磁器焼成に成功しマイセン窯が始まり、ヨーロッパで磁器産業が次々と設立され始めてからも、その製造技法と装飾の特殊性の故に磁器は高価な品物でした。

15世紀のころ、ハンガリーはヨーロッパの経済・文化大国の一つでしたが、その地位は16世紀半ばのオスマントルコの侵略によって崩れ去り、以後150年間に及ぶハプスブルク帝国=オスマントルコ間の戦争は国全体に甚大な被害をもたらし、ハンガリーは西ヨーロッパに比べ何世紀もの経済的・社会的遅れを被ることになりました。

【フンボルト SP ティーカップ&ソーサー】原型1860年ごろ。マイセン窯の影響を示す、鳥や蝶の群れ、小枝や植物の写実的な絵が施されています。19世紀に著名なロスチャイルドの人々がいくつもこのディナーセットをヘレンドに注文したことにちなんでつけられました。

その為、ハンガリーでの磁器製作所の操業は多くの困難を伴っていました。当時のハンガリーはまだハプスブルク帝国の一領土に過ぎなかった上、ウィーンでは既に1718年から帝室の磁器工場が操業しており、競争相手の出現は嫌煙され、ペストの市民が新しい磁器製作所の設立申請をしても資本の不足を理由に却下されるばかりか、彼の製品はウィーン宮廷の命令で粉々にされてしまうほどでした。

しかし1820~1830年代に入り、資本主義経済への発展と改革への機運の高まりでハンガリーの資本主義的発展を遮ることはできなくなったころ、ようやく上流貴族出身のイシュトヴァーン伯爵と、下級貴族出身のコシュート・ラヨシュという二人の傑出した政治家が現れました。二人は祖国が資本主義的に発展するための前提条件として、近代的な製造業や商業・金融制度の確立が必要であると十分に認識しており、ハンガリーにおける磁器製造所の設立もこの産業振興策の一つでありました。

伝統的な陶器工房が点在するいくつかの地方の村々で磁器焼成の実験が繰り返され、ついにバラトン湖の北側、バコニ山地に位置する小さな村“ヘレンド”で磁器焼成の試みが見事に成功しました。これがヘレンド窯の始まりです。

帝室・王室御用達へ

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【ゲデレ オリエンタルカップ&ソーサー】原型1860~80年ごろ。柿右衛門装飾モチーフの組み合わせです。本来の名称は「西安の赤」でしたが、フランツ・ヨーゼフ1世が王妃エリザベートに贈ったことから、夏の離宮であったゲデレの城館にちなんでつけられました。

 

ヘレンド窯の重要性は歴史的な背景だけではありません。創業者たちは外国の製品との競争に勝てるような満足のいく品質の製品を生み出すため、少なくとも10年間にわたって研究を続けました。様々な機械を購入、新たに窯を設置し、50人を超える従業員を抱える工場へと発展しながらも、古くからの職人達の経験を生かしながら生産を続けました。成果はすぐさま現れ、1842年、議会は工場に対してハンガリーの国章の使用を許可し、帝室・王室御用達磁器製作所として登録しました。同年に開催された産業博覧会では、ウィーン製磁器の品質に迫る製品を出品しました。

当時のヘレンド窯の案内書には、初期はマイセン窯、その後はセーブル、ウィーン、カポディモンテ窯などのヨーロッパ有数の窯の主に作られなくなった古いモチーフやセットの模倣をヘレンドが始めた経緯が書かれています。その頃はまだデザインの特許が導入される前で、ヘレンドは自らの名をこれらの作品に印すことが出来ました。ハンガリーの大貴族はこぞって、割れたり欠けたりした先祖代々のディナーセットをヘレンドから補充するようになり、工場にとって主要な顧客となっていきました。皮肉なことにへレンド窯の創業はハンガリーの資本主義発展の成果の一つでしたが、彼らの顧客は国内外の封建的な上流大貴族であり、ヨーロッパ各地の大規模な磁器工場が、すでにより広い層の中産階級向けの磁器製造に転換し始めていたころ、ヘレンドは伝統ある帝室磁器製作所の様式を復活させ、芸術の域にまで達する華麗な作品を制作していました。

ヘレンドの隆盛

その後のヘレンド窯の眩いばかりの繁栄は、ロンドンでの万国博覧会の成功に始まります。1851年にロンドンで開かれた万国博覧会では、ハプスブルク帝国内にあった19の磁器製作所のうちヘレンド窯だけが金賞を受賞します。花鳥模様の装飾が施されたそのディナーセットはヴィクトリア女王の目に留まり、さっそくディナーセットの注文を受けたことから、「ヴィクトリア」と名付けられました。

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蝶や牡丹の花が鮮やかに描かれた中国趣味(シノワズリ)の香る「ヴィクトリア」シリーズ。1851年、ロンドンで開催された博覧会で、ヴィクトリア女王がこのシリーズを見染め愛用したというエピソードからその名がつけられました。

その当時、工場では60人ほどが働いており、窯を改造し原料の攪拌機も設置されたとはいえ、生産は相変わらずほとんど手工業方式のままでした。機械による生活用品の生産が着実に普及し始めていた19世紀半ばにあって後進を拝するものでしたが、ヘレンドではまさにこの遅れこそが長所となりました。1860年代イギリスでは、工場で生産された安価な大量製品に対して、中世の熟練した職人技を復活させようとするアーツ・アンド・クラフト運動が起こっており、こうした中でヘレンドの古風な技法への執着や品質の高さへの厳しいまでの要求は、時代の先端を行くものとなりました。

1862年、再びロンドンで開かれた博覧会で、ヘレンドはまたもや栄冠に輝きました。ハプスブルク皇帝は1864年にすでに廃業していた帝室磁器製作所の所有する特許パターンの権利までもヘレンドに委譲し、かつてのライバル窯が消えてゆく中で、ヘレンドの世界的名声は高まるばかりでした。

ヘレンドの衰退と再興

1867年、国外亡命を余儀なくされていたハンガリーの政治家とハプスブルク皇帝の間で「協定」が結ばれ、オーストリア=ハンガリー2重帝国が成立します。ハンガリーはそれまでハプスブルク帝国世襲の領土としてオーストリアの半植民地でしたが、この協定によりハンガリーはある程度の自治を認められただけでなく、経済発展に急速な弾みをつけました。工場が次々と設立され、急速な産業化が進んでいくのに対し、一方でハンガリーの産業発展の誇りであったヘレンドは危機に陥ります。大規模な経済発展は、機械化や工場での大量生産へと向かっていき、ヘレンドの古風な様式や高度な手仕事を必要とする生産は途端に時代遅れとなり、1874年に起きた世界的な経済恐慌も衰退へと向かわせ、ついに工場は破産を宣告しました。

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【ロスチャイルドバード RO】原型1860年ごろ。マイセン窯の影響を示す、鳥や蝶の群れ、小枝や植物の写実的な絵が施されています。19世紀に著名なロスチャイルドの人々がいくつもこのディナーセットをヘレンドに注文したことにちなんでつけられました。

第一次世界大戦の敗北はハンガリーに深刻な打撃を与え、ハンガリーは領土の3分の2を喪失し、経済停滞はヘレンドにも影響を与えました。主な顧客層であった上流貴族層は減少を続け、1923年には従業員がわずか23名にまで減少しました。ヘレンド窯にも転機が訪れます。工場の経営者は中産階級の新しい市場に目を付け始め、当時需要が伸びていた手ごろな値段の小さな装飾品の生産に力を入れていきました。1930年代、工場は小像(フィギュリン)の製作を開始し、それらを次第に開花させていきました。1934年には従業員は140名に増え、1940年には450名を超える程になりました。

ただし、この成功もつかの間、第2次世界大戦の勃発により工場は再び後退を余儀なくされます。戦争の影響で輸出市場からは切り離され、1945年の終戦後も海外から輸入されていた原材料が何年も調達できずにいたため、すぐに復興には結びつきませんでした。しかし、1948年に行われた国有化により状況は好転します。リモージュより大量の素地が調達された後、1950年代には新しい工房が建設、電気の窯が設置されましたが、機械化されたのは重労働の仕事だけであり、成型と絵付けは変わらず人の手によって行われ、生産の職人的な特徴は残されました。その後ヘレンドは再び世界に向けて生産を開始し、現在では往時をしのばせるヘレンドならではのものから、近代的な作品、また小像の製作も続けられています。