ウィーン磁器工房アウガルテン 「ハプスブルク家とお茶碗と砂糖菓子」Vol.6

いよいよ最終話です。

0838a8d5
【テキスト版】ル・ノーブル亭主の徒然なるままに

-ハプスブルク家とお茶碗と砂糖菓子6-

マリア・テレジア様亡き後、ウィーン磁器工房の経営はゾルゲンタール男爵などに委ねられ発展、いよいよウィーン磁器工房の時代ですね?

「コバルト・ブルーの発明や金紛を油に溶かし塗る技術の開発に、古典主義様式の絵画を描く技術も完成し、レパートリーは多種多彩となり、業界ではトップクラス。

しかし、神聖ローマ帝国は1789年に起こったフランス革命が引き金となり、1806年、ナポレオン率いるフランス軍に敗北。神聖ローマ帝国皇帝でありながらオーストリア皇帝と自ら称していたフランツ1世は神聖ローマ帝国の解散を宣言し、神聖ローマ帝国は消滅してしまったんや。

そんな国の状況とは反対にウィーン磁器工房には、ナポレオン軍への大量の磁器納入や、フランツ1世の愛娘と憎きナポレオンとの結婚による大量の磁器発注などで活気づいていた。また、1814年のウィーン会議では、出席者の欧州各国代表や高級官僚たちがウィーン磁器工房の磁器を買い集め、工房は絶頂期を迎えたんや。

ウィーン会議が終了すると、今までの華やかさとは違った身近な心地よいものに目を向ける『ビーダーマイヤー』が流行。ウィーン磁器工房でも簡素で実用的なビーダーマイヤーシリーズに人気が集まった。

1848年、フランツ・ヨーゼフがオーストリア皇帝に即位したころからハプスプルク家と工房には、暗雲が立ち込める。あれほど栄えていた工房は、ボヘミアの磁器の手頃な価格に押され、生産は徐々に縮小。皇帝フランツ・ヨーゼフとシシーの愛称で親しまれた皇后エリザベートが支援するも、1862年のロンドン万国博覧会を境に注文が止まり、休窯に追い込まれたんや。

一方の皇帝は、民族運動によるハンガリーの独立承認から『オーストリア=ハンガリー二重帝国』制を招き、メキシコ皇帝となっていた弟マクシミリアンの処刑、皇太子ルドルフの自殺、皇后シシーの暗殺と悲劇が続き、失意のどん底に突き落とされた。さらに次期皇帝の大公夫妻がサラエボで暗殺。それが引き金となり第一次世界大戦が勃発したのは周知のとおり。その大戦のさなか、皇帝フランツ・ヨーゼフは倒れ、息を引き取ったんや。

フランツ・ヨーゼフの後を引き継ぎ、皇帝となった甥のカールも戦況を打開しようと奔走するが、1918年、オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体。皇帝カールはやむなく退位し、ウィーン磁器工房も再開されることなく、共に消えていったんや。

しかし、ウィーン磁器工房の高い技術と芸術性を惜しむ声に1923年、マリア・テレジアの狩猟館アウガルテン宮殿を改造して、ウィーン磁器工房アウガルテンとして蘇り,ひとつひとつを手作りで仕上げる当時の技法を踏襲。現在も世界から高い評価を受けているんや。」

『ウィーン磁器工房アウガルテン』日本の総代理店が亭主様のお店「ル・ノーブル」なのですね。

【編集・デザイン:大山崎リトルプレイス 大山崎ツム・グ・ハグ  2016年 Vol.5
【大 山崎リトルプレイスについて】私たちノーブルトレーダース(株)の本社は京都にあり、大山崎町は会社設立の原点の場所でもあります。その町で活 動をされている大山崎リトルプレイスさん。町や生活に関する情報をはじめ、近隣地域で活動をしている会社や人々を取材され「大山崎ツム・グ・ハグ」という フリーペーパーを毎月発行されています。その中で多くの人々に陶磁器の魅力を知っていただきたいと始まったのが窯にまつわるコラム「ル・ノーブル亭主の徒 然なるままに」です。