リチャードジノリ「第3の窯-温故創新-」Vol.5

ードッチア窯(現リチャード・ジノリ陶磁器会社)に暗雲漂い始める1787年ー

ロレンツォ2世が亡くなり、長男カルロ・べネデット・ジノリ・リーシ(以降べネデット) が後継ぎに。べネデットは工場長パオロ・ロレンツィーニ(以降パ
オロ) の支えを得ながら、万国博覧会に出品し続け、直営店は4店舗が加わり6店舗になるなど順調やった。余談やが、パオロの父親はジノリ家の料理長、母親はメイドとしてジノリ家に仕え、兄はジノリ家の援助で学校に通った。その兄は、のちに「ピノキオの冒険」を書いたカルロ・コッローディ(本名カルロ・ロレンツィーニ)なんや!それが縁でリチャード・ジノリ社には、ピノキオシリーズがあるんや。パオロが1891年に亡くなると、べネデットは工場を仕切ることができず、さらに兄弟間で工場分割の話が出るなどしたためドッチア窯は方向性を失い、1896年イタリア北部で台頭していたミラノの陶磁器メーカー、リチャード社と合併。これによりジノリ家5代にわたるドッチア窯の幕は閉じられ、リチャード・ジノリ陶磁器会社(以下ジノリ社)が誕生、会社は大企業へと飛躍を遂げていくんや。この時代のヨーロッパはアールヌーボー様式(イタリアでいうリバティ・スタイル:花やつるなどの植物と曲線・曲面を自由に組み合わせた装飾や図案)全盛期。ジノリ社は、ミラノの第一線で活躍するグラフィックデザイナーのジョンバニ・ブッファを迎え、形と装飾が一体化したデザインの作品を次々と発表。1902年のトリノ万国博覧会に出展し絶賛を博す。特に「孔雀の壺」は超絶技巧ゆえ制作されたのは2つ!第1次世界大戦を機にアールヌーボーは廃れ、戦後、ジノリ社は芸術性を統一をするため、若き有望なアーティストを迎える。古きを取り入れ新しきを創りだす天才の登場や。

【編集・デザイン:大山崎リトルプレイス 大山崎ツム・グ・ハグ2017年Vol.5】
【大 山崎リトルプレイスについて】私たちノーブルトレーダース(株)の本社は京都にあり、大山崎町は会社設立の原点の場所でもあります。その町で活 動をされている大山崎リトルプレイスさん。町や生活に関する情報をはじめ、近隣地域で活動をしている会社や人々を取材され「大山崎ツム・グ・ハグ」という フリーペーパーを毎月発行されています。その中で多くの人々に陶磁器の魅力を知っていただきたいと始まったのが窯にまつわるコラム「ル・ノーブル亭主の徒 然なるままに」です。