ウィーン磁器工房アウガルテン 「ハプスブルク家とお茶碗と砂糖菓子」Vol.2

前回はアウガルテン窯が始まる前のお話しでした。マイセンで磁器開発のニュースを聞いたデュ・パキエが、負けてはいられないと単身ドイツへ赴き、そこで一人の人物をひきぬき、ウィーンへと連れ帰るのですが・・・

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【テキスト版】ル・ノーブル亭主の徒然なるままに
ーハプスブルク家とお茶碗と砂糖菓子 VOL.2-

欧州の名家と共に歩んだウィーン磁器工房のお話しの始まりです。

「貴族たちを虜にした東洋磁器は当時、砂糖や香辛料、新3大飲料とともに入手が困難で大変高価なものやった。時に貨幣代わりに奴隷と交換されるほどやった。金にも劣らない財宝となるとみた欧州の国王や貴族たちは、東洋磁器と同じ磁器を作ることを命じた。

最初に成功したマイセン磁器工房(以下マイセン工房)を見て、「オーストリアにも磁器工房を」と考えたのが宮廷武官デュ・パキエ。マイセン工房からフンガーを引き抜き、1718年、皇帝カール6世から25年間の磁器製造販売の独占権を得て、ウィーン磁器工房を開いた。しかし、フンガーは秘法を習得しておらず、磁器は一向に出来へんかった。しびれを切らしたデュ・パキエは、マイセン工房のベドガーの助手・シュテルツェルを、高待遇を条件に引き抜いたんや。

シュテルツェルは、すぐに磁器が出来ない原因は土にあると見抜き、マイセン工房で使っていた土を入手。翌年、白磁の磁器の焼成を成功させたんや。一方、フンガーは、良質の色絵の具を開発し、その絵の具を使いこなせる描き手を探して画家のヘロルトと出会った。ヘロルトは、フンガーを師とし色彩を学びながらウィーン磁器工房で働いたんや。

しかし、マイセン工房のように皇帝からの資金援助はなく、膨らみ続ける製造コストで収益は上がらず、工房の設備や他の職人のレベルの低さ、約束の報酬を支払うこともままならない工房の状況に我慢できなくなったシュテルツェルは、ついにとんでもない行動に出たんや!

【編集・デザイン:大山崎リトルプレイス 大山崎ツム・グ・ハグ  2016年 Vol.2
【大 山崎リトルプレイスについて】私たちノーブルトレーダース(株)の本社は京都にあり、大山崎町は会社設立の原点の場所でもあります。その町で活 動をされている大山崎リトルプレイスさん。町や生活に関する情報をはじめ、近隣地域で活動をしている会社や人々を取材され「大山崎ツム・グ・ハグ」という フリーペーパーを毎月発行されています。その中で多くの人々に陶磁器の魅力を知っていただきたいと始まったのが窯にまつわるコラム「ル・ノーブル亭主の徒 然なるままに」です。

余 談ですが、デュ・パキエという名前はフランス風ですが、実はオランダ生まれ。快活なラテン人気質、企業家に向いた創造性豊かな性格で、優れた知性と奔放な 情熱、鋼鉄の意思、機を見るに敏な目の持ち主でした。当時のオーストリアは重商主義で、新たな商業活動を始める者には有利な条件が提示されたため、デュ・ パキエが磁器に関心をもった理由の一つには、王室の後ろ盾を得られるという思惑があったからかもしれません。

ちなみに下の写真は、現在のアウガルテン工房の隣に併設されているミュージアムです。中央に見えるのはかつての窯の1基。燃料はガスでした。昔の作品が展示されていますが、イベントなどにも使われているようです。

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