『ヨーゼフ・ホフマン』はアウガルテンの再復興に尽力し、またデザインの上でも同窯に大きな貢献をもたらした偉大な芸術家として知られています。自らの芸術に妥協を許さなかったホフマンにとって、製作に同じく妥協を許さないアウガルテンの存在は重要な意味を持っていました。
特別な時代を代表する建築家、ヨーゼフ・ホフマン
1900年代のウィーンは特別な時代でした。その時代から連想するのは、ウィーン市内のリング通り(環状線)の建設、精神分析学者フロイト、作曲家マーラー、そして多くの人々がコーヒーとザッハトルテに舌鼓を打ちながら世界の様々な出来事について哲学的に談義を交わしたカフェ。ヨーゼフ・ホフマンはその特別な時代を代表するオーストリアの建築家でした。
『総合芸術』は作曲家ワーグナーが提唱した新しい芸術概念ですが、ホフマンはその概念に傾倒していきました。総合芸術 [Gesamtkunstwerk]とは、音楽や歌に劇、舞台装置を含めて、作品全体で一個の世界を表現しようという試みです。芸術分野のそれぞれの枠にとらわれず、空間、空間を構成するすべてのものを統合して生み出された融合体を芸術の表現とすることに熱意を注いでいったのでした。
建築における総合芸術は、建物だけでなく、装飾、家具、そして食器にまで及びます。ホフマンは食器のデザインのパートナーとして、アウガルテンを選びました。彼のアイデアを具体化するための方法として、アウガルテンはその高い品質のため、理想的な工房だったからです。ホフマンはアウガルテンで多くの有名な作品を生み出し、彼の才能を最大限に開花させたのでした。
受け継がれるホフマンのスピリッツ
メロン ブラック&ホワイト
このホフマンの遊び心が見られるデザインは1929年に生まれ、当初は黄色とライトブルーのみでしたが、その後、カラーが増えていきました。絵付けはシンプルですが、一筋の筆の跡も残さずにこの特徴的なラインに色を入れていく作業は、多くの経験をつんだ熟練のペインターによってしか実現できません。
ヨーゼフ・ホフマンは1870年にオーストリア・ハンガリー帝国下のピルニッツ(現チェコ)にて生まれました。ブルノの国立工芸学校ではモダニズム建築で有名な建築家アドルフ・ロースと共に学び、芸術的な基礎を築きました。ドイツのヴェルツブルクで軍事施設の建築に携わった後、ウィーンの応用美術学校に入り、当時の巨匠ワーグナーとハーゼナウアーの下で学びました。
ホフマンはグスタフ・クリムトが中心になって結成した、アールヌーボーなどに影響を受け、過去の芸術に捉われない総合芸術運動を目指す『ウィーン分離派』の一員となりました。
ホフマンはほとんど同時期に二つの重要なプロジェクトを開始します。ウィーン近郊のプーカースドルフのサナトリウムと、ブリュッセルのストックレー邸の建設です。これらの作品には、ウィーン分離派の特徴である直線的なデザインが施されています。このようなデザインのため、ウィーン市民は親しみをこめて彼を『スクエア・ホフマン』と呼びました。
ホフマンは1924年のアウガルテン再復興の影の推進者の一人でもありました。アウガルテンの高品質な職人芸によってなら、頭に思い描いたデザインを実現できると考えたからです。その試みは成功し、アウガルテンのホフマンのデザイン「メロン」「デコヴィエナ」「アトランティス」は現代の人々の食卓を飾ることも可能となりました。
また、ホフマンは次世代の芸術家の教育にも熱意を注ぎました。彼がウィーンの応用美術学校で教えた生徒の中には、ウィーン磁器工房 アウガルテンを代表するシリーズ「エナ」をデザインしたエナ・ロッテンベルクもいます。ホフマンは第二次世界大戦後、芸術運動の委員などの公的な役職を歴任したあと、1956年にウィーンにて85歳でその人生に幕を閉じました。