江戸切子

江戸硝子のはじまり

古代の例外を除けば、日本で最も古く吹きガラスが作られたと考えられるのは長崎、続いて発展したのが関西地方、そしてやや遅れて江戸時代の東京でした。

東京で本格的なガラス器の製造が始めった江戸中期にはまだカットグラスは作られておりませんでしたが、粘土型などの簡単な型にガラスダネを吹き込む型吹きが行われるようになると、器の表面におぼろげな絵柄や形のデザインが楽しめるようになりました。

この吹きガラスの製造には不必要な部分を取り除き、その口元を整えるために口縁部の仕上げが必要であり、今日では当たり前の口縁部を焼いて縁を整える「口焼き」の技法は当時まだ技術がおぼつかず、ひとつひとつを研磨材や、砥石を利用して丁寧に削られていました。

当時、西洋の文明は出島のある長崎を経て、大阪から江戸へとやってくるのが普通で、ガラスの技法もまたこの道を辿りやってきました。職人たちはヨーロッパから積載されてくる西洋の華麗なガラス製品を目にする内に、表面に装飾を施す方法を思いつき、絵付けなども施されるようになります。

そうして長崎ではギヤマン彫りと呼ばれる、鉄刀状の道具にザクロ石を粉末にした研磨材の金剛砂(こんごうしゃ)をつけてガラス表面を擦り、模様を描く方法が始まり、薩摩では、水晶の加工にグラヴィールやカットガラスと同じような、大小の金属円盤に研磨材をつけて回転させ加工する技法も行われるようになりました。当然、この技法をガラスに使用すればカットもグラヴィールも可能でしたが、1~2ミリ程の厚さしかない当時の吹きガラスには、大変困難な加工でした。

日本初の切子細工

日本ではじめてカットガラス・切子細工を行ったのは、天保年間に日本橋でガラス製造販売を生業とした加賀屋の番頭、文次郎(のちに分家として認められ、加賀屋久兵衛となる)が初めとされています。ただし、厚手の素材づくりなど技術が追いつかず、何とか製品になったのは江戸期も末のころでした。

江戸期では今日の様に重量のある大物の素材を、宙吹きで自由な形に加工する技術や道具はなく、鉛の多い素地を2度3度と竿に厚く巻き付け、ガラスダネの柔らかいうちに型の中へ吹き込むというものでした。こうして出来上がった素材の表面には型肌による細かい凹凸が目立っているため、素材の隅々まで模様を施すというのが江戸切子の特徴でした。

当時の加賀屋のチラシに描かれている豊富な切子や、今日残る江戸切子と思われる遺品の多さを見ると、切子に対する加賀屋の功績は大きかったと思われます。

文明開化と江戸硝子の発展

嘉永6年、米大統領の親書を携え、黒船として名高い艦隊を率いてやってきたペリー提督は、硝子商の加賀屋久兵衛によって船内に納められた切子瓶を手にした際、文明の遅れた未開の国で、このような素晴らしいガラス器が出来るのかと驚嘆したと伝えられています。

長い鎖国が終わった後、硝子界にも新風が吹き始めました。明治政府の官庁の一つである工部省品川工作分局(通称品川硝子)が、イギリスより技術者を招き、若者たちに直接西洋のカット及びグラヴィールの技術を習熟させました。ヨーロッパで行われていた本格的なグラヴィール技法は、この頃に伝わりました。そしてガラス作りは国家事業となり、切子の技法がグラインダーに取り付けられた大小各種の金盤や石盤によってカットされる洋式技法へと変わりました。お雇い外国人より教えを受けた伝習者たちは、その後明治・大正・昭和の切子界の指導者たちとなり、江戸期以来の日本のカットガラスを伝承し、多くの弟子を育てました。

江戸末期に発祥した日本のカットグラスは、明治の文明開化とともに同十年前後にはひとつのピークを迎えます。明治6年にはウィーンで開かれた万国博覧会で陶磁器や漆器などと共に、加賀久の切子文具も海を渡っています。

技法は変わりましたが、今日東京で作られるカットガラスは、東京都の伝統工芸品に指定され、「江戸切子」として欧米の製品に劣らぬデザインと素材、また職人たちの熟練したテクニックにより、高い評価を得ています。

時代と世代を超えて愛される、最高峰のクリスタルブランド
~KAGAMIクリスタル~

KAGAMIクリスタルの創業者 各務鑛三は、明治29年 岐阜に生まれ、明治43年 14歳で愛知県立瀬戸陶器学校に入学。同校を首席で卒業後、大正2年上京し東京高等工業学校(現・東京工業大学)の図案科に入学します。当時の同科には芹沢銈介、窯業科に浜田庄司がいました。

学業を終えた後、そのまま残り教師を勤めていましたが、師が満鉄中央試験場の窯業部長になったことで鑛三も同行することになります。満州・大連では、満鉄が事業の一環として高級ガラス器の製造をすることになり、鑛三も転勤し現地の中国人に指導をしていましたが、満鉄の副総裁は、満鉄ガラスを世界に通用する高級ガラスにしようという計画を立てます。そして鑛三は留学生として、ドイツの国立シュトゥットガルト美術工芸学校に留学することになります。ドイツで著名なガラス工芸家や作品に薫陶を受けたこの経験が、のちの各務鑛三のガラス工芸の基礎となりました。

留学後は満鉄に戻らなくてもよいことになり、日本で現在のKAGAMIクリスタルの前身ともいうべき、各務クリスタル工芸硝子研究所を東京都北区に創設します。しかし、当時の日本ではガラス工芸というジャンルもなく、自分の工房で使う素材ガラスの調達にも苦労することとなりました。

昭和9年、日本陶器の創立者の一人・大倉和親の力添えで、大田区蒲田にクリスタルガラスの製造工場を興します。蒲田工場では、ドイツで培った知識とともにデザイナーやカッティングなど各分野のすぐれた技術者を集め、細足グラスから花器まで水晶のように澄んだ美しいガラス素地の多彩なガラス器の製造に励みました。各務クリスタルの作品は、1937年のパリ万博をはじめ帝展などに毎回出品し、そのほとんどが受賞という輝かしい成績を残しています。

昭和20年4月 戦争により蒲田工場は空襲で焼失しますが、翌21年に工場が復興すると、昭和初期のモダニズムスタイルや、切子技法を加えたものなど、鑛三のガラス芸術に対する情熱は以前にも増して、数多くの傑作が生み出されて行きました。

昭和60年、多くの功績と弟子を残し、各務鑛三は89歳の天寿を全うしました。その連綿とした流れは現在も続き、新しくなった茨城県の工場では、デザイナーや多くのスタッフが、鑛三の目指したクリスタルガラスの美を追求し、優れた製品を世に送り出しています。

江戸切子の工房をご紹介します。

堀口硝子

1947年設立。江戸切子の伝統的文様を生かしながら、現代に通じる文様を加えた商品を提供し続けています。『秀石』は創業者の堀口市雄氏が「江戸切子」作家として最初に名乗った号で、現在は三代目である堀口徹氏によって継承されています。

伝統模様である八角籠目の正確さにあげられるように、切子の精度にこだわられています。蓋ものや密閉容器といった手づくりでは難しいとされる作品や、カフリンクスなど異素材との組み合わせも実現されていおり、モダンな意匠への取り組みも始められています。

廣田硝子

東京都墨田区に本社を置く明治32年創業の老舗硝子会社。硝子素材の楽しさとオリジナリティーを大切にした、どこか懐かしく新鮮な食器の域を超えた価値の創造に務められています。

近年では東京スカイツリータウン内の施設「東京ソラマチ」の行灯装飾を手掛けるなど、東京の下町を代表する硝子メーカーとして活躍の場を広げています。

根本硝子工芸

昭和34年設立。創業者の根本幸雄氏は江戸切子の世界に13歳で飛び込み、2003年東京都優秀技能者知事賞、2009年 春の黄綬褒章を受章するなど、洗練されたデザインと天性のセンスによって美しい作品の数々を生み出されました。

残念ながら幸雄氏は2014年に他界されましたが、その技術や姿勢は息子で2代目の根本達也氏にも脈々と受け継がれています。

田島硝子

昭和31年創業。業務用ガラスに始まり、業務用のタンブラーやワイングラス等を作り始めて以降、半世紀にわたり時代に合ったガラス製品を一つ一つ熟練した職人の手づくりで丁寧につくり続けている江戸切子メーカーです。

近年はおみやげグランプリ2015 最優秀賞・観光庁長官賞受賞した「富士山グラス」が、国内外で脚光を浴びるなど、時代に合ったガラス製品を熟練した職人の手づくりで丁寧につくり続けています。