「大倉陶園」は1919年(大正8年)、「良きが上にも良きものを」という大倉孫兵衛、大倉和親親子の理念のもとに創業され、今日に至るまで日本を代表する食器メーカーとして、美術的価値の高い磁器を作り続けています。
実業家・大倉孫兵衛
大倉陶園の創業者である大倉 孫兵衛(おおくら まごべえ)は、江戸時代の末期 天保14年に江戸四谷の江草紙屋(錦絵や絵本の出版販売店)の次男として生まれました。父の後を継いだ兄の下で働いたのち、22歳で結婚すると同時に独立し、神田今川橋に「萬家(よろずや)」の屋号で絵草紙屋を開きました。その後、当時一流の出版社が軒を連ねていた日本橋に借家を見つけて移転し、今日のニュース写真に代わる錦絵を次々と出版しました。しかし、孫兵衛は日本橋に店を借りたときから、堅い本も扱う書籍屋になりたいという夢を抱いており、明治八年には「萬家・大倉孫兵衛」を「大倉書店」に改称し、本格的な書籍の出版社に転換しました。「大倉書店」は、地図類や語学書などの出版を得意分野としながらも、夏目漱石の処女出版に当たる「吾輩は猫である」などの名著を手掛け、明治期においては、博文館と双璧をなす代表的な出版社となりました。
優れた事業家であった孫兵衛は、洋紙問屋のオーナーでもありました。出版社を経営しながら、和紙よりも洋紙の需要が伸びていくのを目の当たりにし、明治10年代に洋紙の販売を始め、明治22年に店名を「大倉孫兵衛洋紙店(現・新生紙パルプ商事)」として本格的な洋紙問屋を創立しました。大倉書店が関東大震災(大正12年)で大打撃を受けたあたりで業績が振るわなくなる一方で、洋紙の需要は日本経済の成長とともに拡大し続けたのでした。
森村組への参加
孫兵衛が店名を「萬家」から「大倉書店」にした翌年の明治9年、孫兵衛は死別した前妻の兄である森村市左衛門に誘われて、日米貿易の商社である森村組の仕事を手伝うことになりました。銀座4丁目に「森村組」を設立、弟の豊(とよ)をニューヨークに派遣し6番街に店を開かせた森村市左衛門は、アメリカ人向けに珍しそうな雑貨類を仕入れて弟に送ったところ、予想外の好成績だったので仕入れを増やそうとしていました。「日本を欧米並みの大国にするには、貿易を盛んにして外貨を増やすことだ」と聞かされた孫兵衛は心を動かされ、報酬ゼロで手伝うことにしました。
当時、大倉書店はスタートしてまもなくでしたが、孫兵衛は市左衛門とともに、東京だけでなく地方都市にも足を延ばし仕入れに奔走しました。当初はいわゆる日本の骨董品で、漆器、陶磁器、銅器、花瓶、置物、屏風、扇子、印籠、根付などでしたが、そのうち骨董品だけでは売り上げを伸ばすことは出来ず、漆器か陶磁器の新製品ならアメリカでの需要も多く、売り上げ増を期待できると考えるようになりました。
初の日本製コーヒーカップ
明治16年、「モリムラ・ブラザーズ」の店長 森村豊は、東京の本社に「コーヒー茶碗を作って送れ」と要請してきました。当時の日本の技術では絶対不可能な注文であり、森村組にはこれに挑戦できる人材が他にいなかったため、中堅出版社の社長である孫兵衛が引き受けることとなりました。
孫兵衛は見本のコーヒー茶碗をもって横浜から船で神戸へ、汽車や船で京都の粟田や愛知の瀬戸の窯元を回り、最終的に瀬戸の川本桝吉の説得に成功し、素地は黒ずみ、厚みもボテボテ、コストも1円50銭(現在の1万5千円くらい)という不本意な出来ながらも初の日本製コーヒー茶碗を作り上げました。しかし予想に反し、このコーヒー茶碗には九谷焼風の美しい絵付けが施されていたためか、ニューヨークですばらしい販売成績を収め、次はコーヒー用の砂糖入れ、次はミルク入れと水差し…というように、注文が舞い込むようになりました。こうした注文をこなしていくうちに、孫兵衛が担当する森村組の陶磁器製造部門は、どのような難しい形の物でも作れるようになりました。こうして森村組の輸出品全体のうち陶磁器が占める割合が7割以上になり、森村組は単なる日本雑貨の輸出商店から陶磁器の製造輸出商社へと変貌していきました。
大倉孫兵衛は輸出陶磁器に施す工芸デザインのための参考資料を数多く大倉書店で刊行しています。孫兵衛の指導管理によって製造された輸出陶磁器は、今日「オールド・ノリタケ」と称する骨董品の最も希少価値が高い作品にあたります。それのデザインの最大の特徴は、「線盛り」「点盛り」などの盛り上げ技法が多用されていることで、中でも金を塗り被せた「金盛り」はコレクターの垂涎の的となっています。
日本で初めてのディナーセット
明治27年、ニューヨークの森村豊から「コーヒーセット、ケーキセット、花瓶、灰皿、キャンディーボックスなどファンシーグッズだけでは限界がある。日常茶飯事に使っているディナーセットを作ってほしい」との要請が来ました。これは当時の日本の技術レベルでは無理難題であることは明白でした。食べ物を盛りつける食器は純白で、食事ごとに洗うのだから割れづらい材質でなければならないのですが、その頃の日本において「純白硬質磁器」の製造技術はゼロに近かったのでした。
その後8年ほどの間、純白の磁器ができるような原土を発見すべく日本国内を歩き回り、東京工業学校の窯業科の卒業生を雇い入れ、ドイツに留学研究させましたが、思ったような作品は生まれませんでした。ところがあるとき、森村組の名古屋支店を訪れたイギリス人の紹介で、孫兵衛は息子の和親を伴いオーストリアの製陶工場を2週間にわたり訪問することになりました。最新の陶器焼成法を研究、現地で最新式の機械も購入、森村市左衛門以下、森村組の幹部を説得し、名古屋に大工場をつくる計画を具体化させました。場所は愛知県愛知郡鷹揚村則武。明治37年1月1日、孫兵衛の息子の和親を代表社長にして、現ノリタケカンパニーの前身に当たる「日本陶器合名会社」はこのようにして設立されました。
純白硬質磁器は当初の計画通りには仕上がらず、実際の輸出までにはさらに10年をかけなければなりませんでしたが、大正3年ついに成功。20年間苦労を重ねた日本製ディナーセットは、大正10年には10万セットを販売するなど、「ノリタケ」のブランドがアメリカの家庭に入り込んでいきました。
そして世界のトップブランドへ
世界のノリタケブランドを持つ「日本陶器」は、大倉孫兵衛、大倉和親親子の主導、責任のもとに経営されていました。しかし明治42年10月大倉孫兵衛は脳溢血にかかり事業の第一線からは身を引くことになりました。
大正6年、74歳になった大倉孫兵衛は「本邦陶磁器の改良と輸出進展に対する功」により、「緑綬褒章」を下賜されます。この頃、脳溢血も完全には回復しきらず、さらに眼病も併発し療養中の身でありながらも、夢のような新企画を実現すべく、息子の和親とともに着々と準備を進めていました。それは美術陶器工場を東京に作り、「全く商売以外の道楽仕事として、良きが上にもよ良きもの、英国の骨粉焼き(ボーンチャイナ)、仏国のセーブル、伊国のジノリー以上」の「この上なき美術品」を製造するという計画でした。そしてこの計画は手をつけずにあった孫兵衛の賞与を基金として、1919年に決行することとなります。これが大倉陶園の始まりです。