ヘレンド / HEREND

 

ヘレンドの美とハンガリーの歴史

ハンガリーが世界に誇る名窯、ヘレンド。他の磁器には見られない、ヘレンド独特の美しさや遊び心は、激動の時代を潜り抜けてきたハンガリーの歴史を抜きにして語ることはできません。

西にオーストリア、東にルーマニア、北にスロバキア、南にセルビアなどに囲まれ、中央ヨーロッパの広大な平原に位置するハンガリーは、古来よりさまざまな民族が入り乱れてきました。そのたびに多様な文化が持ち込まれ、長い時間をかけて独自に融合、昇華され、現代に受け継がれてきたのです。

中世にはハンガリー王国が誕生し、次第にヨーロッパ有数の大国として存在感を増すようになります。15世紀半ばに国王となったマーチャーシュ1世の時代、ハプスブルク家とオーストリアの支配を争うなど軍事的にも強勢を誇りました。その一方で、イタリアからルネッサンス文化が活発に移入され、宮廷を中心に大きく花開くことになります。そのとき、先進的な陶器文化も持ち込まれたのです。

もとはスペインで発祥し、その後ルネッサンス期のイタリアで高度に洗練された焼き物となったマジョリカ陶器が、アルプス山脈を越えて最も早く到達した地域が、ほかでもないハンガリーでした。イタリアのペサロ公夫妻からマーチャーシュ1世夫妻に贈られた大皿が、ヨーロッパの君主に献上された最初のマジョリカ陶器だったといわれています。

首都のブダには、イタリアから多くの文化人や技術者が招かれ、そのなかに陶工たちもいました。彼らによって窯が開かれ、そこで焼かれたタイルなどのマジョリカ陶器の数々が王宮を飾り、その後のハンガリー陶芸の礎となったのです。

 

東西文化の〝カオス〟

このようにマーチャーシュ1世は、ハンガリーの芸術の歴史において画期となる時代を創出したわけですが、1490年に遠征先のウィーンで突如亡くなります。するとそれまで抑えられていた貴族たちの権力争いが活発化し、国内は大きく混乱していきました。そしてわずか数十年のちに、王国の存亡を揺るがす出来事が起こります。14世紀以来対立してきた、東方のオスマン帝国との戦いに敗れ、ブダも占領されてしまったのです。

これをきっかけに、ハンガリーは3つに分断されます。ブダのある中央部はオスマン帝国によって以後約150年ものあいだ占領され、北部及び西部はハプスブルク家が支配し、東部はハンガリー王国の実質的な後継国家であるトランシルヴァニア公国となりました。

このようにハンガリーは、西方のイタリアからのルネッサンス文化が流れ込んだのとほぼ同時期に、東方のトルコ・イスラム文化の到来に激しくさらされることになったのです。この2つの大きな潮流にハプスブルク帝国由来のドイツやボヘミアの要素も加わって、いわば文化的なカオスが生まれ、そこからハンガリーの独自性も形作られていったように思われます。

ヘレンド磁器には東洋的なモチーフが数多く用いられています。それらは中国や日本の磁器の単なる模倣ではなく、完全に消化されたうえで新たな表現として息吹を与えられたものとなっています。これは西洋と東洋が接触しスパークする最前線であったというハンガリーの地理的・歴史的な背景があったからこその特徴といえるかもしれません。

実際、ハンガリーでは、陶芸文化の面においてもオスマン帝国経由で東方地域からの強い影響を受けています。たとえば、トルコの北西部にあるイズニークで15世紀ごろから盛んに焼き物が作られ、ハンガリーにももたらされました。このイズニーク陶器は、中国の染付の影響とイスラムの様式が融合した独特なものです。とくに、チューリップやヒヤシンス、バラやザクロ、カーネーションなどの花を写実的に大胆に絵付けした陶器は、ハンガリーはもちろん、ヨーロッパ各地の陶器に深い影響を与えることになりました。

 

民間の力で磁器をつくる

文化は高いところから低いところへ流れる、と言われることがあります。たとえば古代オリエントやヘレニズムなどの先行の諸文明からイスラム世界は多くを吸収し、そこで新たに生み出された文化はヨーロッパ世界へと流れ込みました。マジョリカ陶器の生産も、もとをたどればイスラム世界で洗練された陶器技術がイベリア半島に持ち込まれたことが発端でした。こうしてみると、ハンガリーは先進のイスラム陶器文化が西からも東からも比較的早くに流入した地域だったといえます。

とはいえ、磁器の生産に関しては、ハンガリーはそのほかのヨーロッパ地域の後塵を拝しました。17世紀以降、オランダやイギリスの東インド会社が中国などとの貿易を活発に行うようになったころ、中国や日本の磁器へのあこがれがヨーロッパ中で加熱していきます。1710年にドイツのマイセンで磁器が焼かれるようになったのを嚆矢として、ウィーンやミュンヘン、ベルリンやセーヴルなど各地で磁器製作所が次々と設立されましたが、ハンガリーはそれらよりもかなり遅れて1823年のことです。

ヘレンドもほぼ同じころの1826年に開窯されます。当時のハンガリーは近代化の波が押し寄せ、市民階級も台頭してくるなど、社会構造が大きく変化した時代でした。産業面においても新興の実業家や職人たちが活躍をはじめ、経済発展を支えるようになったのです。

ヘレンドの創業者ヴィンツェ・シュティングルも、こうしたベンチャー精神をもった実業家であり職人であったといえます。ボヘミアから渡ってきた一族の出であるシュティングルは、中欧最大の湖であるバラトン湖の北に位置し、バコニ山地の麓にあるヘレンド村に製陶所を設立します。そこでイギリスから伝わった乳白色の陶器(クリームウェア)を作るかたわら、磁器の焼成に乗りだしました。

よく知られているように、ヨーロッパの多くの磁器窯の設立は宮廷が主導して行われたものですが、このようにヘレンド窯では一介の民間人の手によって出発しているのです。ウィーンやチェコで磁器作りの技術を学んだとみられるシュティングルは、ハンガリーの地で磁器生産を自力で軌道に乗せるという、とてもチャレンジングな試みに取り組んだわけです。しかしながら結局のところ、この試みはほどなく資本的に行き詰まってしまい、シュティングルはヘレンドを去ることになりました。

〝カリスマ〟モール・フィシェルの登場

その後事業を引き継いだのが、モール・フィシェルでした。フィシェルは、ヘレンド村から北東に90㎞ほどの場所にある町タタの出身で、クリームウェア製造会社の経営者だった人物です。当初、シュティングルの先進的な取り組みに関心を持って資金援助をしていたのですが、自ら直接経営に乗り出すことになります。彼こそ、現在まで世界的ブランドとして続くヘレンドの礎を築いた実質的な創業者といえます。

若いころからさまざまな事業を起こすなど、フィシェルもまた当時の時代風潮に相応しいベンチャー精神溢れる人物でした。彼はシュティングルから受け継いだ製陶所の改革に取り組みます。工場制手工業を取り入れて近代化を図りつつ、ボヘミア地方で当時作られていた日用使いの磁器を模倣することで技術力を高めていったのでした。

とはいえ、フィシェルはこうした日用品の製造からすぐに高級磁器の製造へと大きく脱皮します。そのきっかけとなったのは1839年に、フィシェルの事業を厚く支援してきたカーロイ・エステルハージ伯爵から、夫人愛用のマイセン窯製のディナーセットの補充を頼まれたことでした。フィシェルにとってこれはまたとないチャンスでした。ヨーロッパ高級磁器の原点であり、代名詞ともいえるマイセン磁器の名品を忠実に再現することができれば、ヘレンド窯の能力を大きく向上させるだけでなく、社会的に広くアピールすることにつながるからです。彼は最高の原材料を調達し、実験を繰り返すことで、見事にこの仕事をやり抜きます。

エステルハージ家という、ハンガリー随一の名門貴族の信頼を勝ち得たことで、バッチャーニ家やパールフィ家といったハンガリー中の上流貴族から注文が舞い込むことになりました。それらの多くもヨーロッパの名窯で焼かれた食器の補充の依頼が中心でしたので、こうした仕事を通じてヘレンド窯は各地の高級磁器の傑作から多くを吸収することができました。

またハンガリーの有力な貴族たちとの交流によって、東洋で焼かれた磁器の名品に接する機会を得たことも、その後のヘレンド窯にとってとても重要なことであったといえます。

たとえば、ヘレンドの初期の装飾文様として有名な「エステルハージ文」は、モスクワで大使を務めたモーリツ・エステルハージがロシアから持ち帰った中国磁器をもとに、フィシェルが作り出したものです。フィシェルは焼成前の乾燥させた器から植物の柄と漢字を削り取るという手法によってこの文様を描きました。

 

これは中国の絵付けのやり方とは異なる独自の技法でした。名品の模倣から入りつつも、たゆまぬ努力によって高度な技術を編みだし、ほかにはない独自性を確立する。こうしたヘレンド窯の特徴は、フィシェルの指導のもと、とても早くから形作られたものだったのです。

 

 

 

ヘレンド黄金時代の幕開け・・そして挫折

モール・フィシェルの大きな功績のひとつは、つねに国際的な市場を視野に入れて活動したことだったといえます。

1851年のロンドン万国博覧会はそうした彼の思想を打ちだす最初の大きな舞台となりました。世界最初の国際的な博覧会であるロンドン万博に出品されたヘレンド窯の作品は高い評価を受け、すべてに買い手がつきました。このときヴィクトリア女王もヘレンドの出展作品に目を留め、ウィンザー城の食卓用にディナーセットを注文したことは有名な逸話です。

つづく1855年のパリ万博でヘレンド窯は、中国や日本の磁器を手本にした作品を出品し、展示大賞を受賞することになります。フィシェルはヨーロッパの名窯が生みだした歴史的な名品を再現することとともに、東洋の磁器を手本としたいわゆるシノワズリーの作品づくりにも一貫して力を入れ続けてきました。そこで培われた芸術性と技術力をハンガリーだけに留めておくのではなく、世界に向けて問うことで、国際的な栄誉を勝ち得ることができたのでした。

こうした世界的な名声を得たヘレンド窯は、諸各国から次々と注文を受けるようになりました。一方でフィシェルは万博での成功が高く評価され、ウィーンの王宮からフランツ・ヨーゼフ騎士勲章を授かり、晩餐会で皇帝に謁見する栄誉を得ます。さらにその後、フィシェルは貴族の身分とファルカシュハージという貴族名を得たのでした。

フィシェルは磁器製作所のオーナーとしてこの上ない成功を手にしたわけですが、彼の飽くなき磁器への探求心は留まることを知りません。彼は売り上げによって得た利益だけではなく、新たな借り入れまでして、すべてを磁器の研究につぎ込み続けたのです。それゆえ企業としては安定した経営を常にできていたとはいえなかったようですが、この時期にヘレンド窯は傑作を次々と生みだしたのでした。

ヘレンドの黄金時代は、万博での成功とともに、当時のヨーロッパの磁器製作の情勢とも大きく関係しています。1864年にはウィーン窯が閉鎖されるなど、各地の磁器窯が大きく衰退していった時期だったため、新興のヘレンド窯が台頭する余地があったといえます。ヘレンドはそれら古窯の高い技術を受け継ぎつつ、新たな感覚を盛り込んだ作品をつくったことで、多くの人々の支持を得ることができたのでした。

 

 

 

 

ところがヘレンドの隆盛はそう長くは続きませんでした。1872年にハプスブルク家から王室御用達の資格を与えられたことでさらに信用を高めたフィシェルは、新たに多額の借り入れを金融機関から行います。そしてそれを1873年のウィーン万博への参加のための費用にすべてつぎ込みました。もちろんこの万博でもヘレンド窯は高い評価を得ます。ところが、同じ年にオーストリア=ハンガリー帝国で初めて発生した株式市場の大暴落による経済恐慌に直面したのでした。

結局、翌1874年にヘレンド窯は破産し、フィシェルは第一線から退くことになったのです。

 

受け継がれるヘレンドの精神

その後モール・フィシェルは1880年に亡くなりますが、まさに磁器に捧げられた生涯であったといえるでしょう。

カリスマ性と飽くなき探求心を発揮して一代で世界的な磁器ブランドを作り上げ、それまでにない美意識に満ちた作品を世に発信し続けたフィシェルの精神。それはその後のヘレンドにも深く受け継がれていきます。

先に触れましたが、ヘレンドの独特な美は、ハンガリーという土地柄が強く反映されている面があるといえますし、それとともにフィシェルの個性が大きな役割を果たしたわけです。さらに言えば、フィシェルがユダヤ系であったことも見逃せない点でしょう。自分の仕事に徹底して打ち込むことはもちろん、威厳のある強い父親として家族を束ね、子供たちに高い教育を与えて知識を継承していく。こうしたフィシェルの生きざまには、やはり彼のルーツが強く反映しているように思われます。

家父長として家族経営の磁器製作所を指揮したフィシェルは、強権的な経営手法で会社を倒産させてしまいましたが、それでも一代でヘレンドが消えることはありませんでした。それは子孫たちに彼の不撓不屈の精神と磁器制作の知識が受け継がれたことが大きかったのです。

実際、倒産したヘレンドが再び輝きを取り戻すことができたのは、モール・フィシェルの孫に当たるイエネー・ファルカシュハージ・フィシェルが、いわば中興の祖として活躍したからでした。

イエネーはパリの名門エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)で陶磁器を学んだあと、イギリスやドイツなど各地で研鑽を積んだ人物でした。さらに陶磁器の研究書を執筆するなど学者としての一面も持ち合わせ、陶磁器全般の深い知識と経験を身に着けました。

彼はヘレンド窯を買い戻して磁器の生産を再開しますが、その製品づくりの取り組み方は祖父モールを彷彿とさせます。様々な実験を行って新たな表現方法を飽かずに模索し続けたのです。そして作り上げた作品を万博で披露するやり方も祖父譲りのものでした。1900年にパリで開催された万博や1926年のフィラデルフィア万博においてイエネーのヘレンド窯は金メダルを受賞しています。

万博で世界的評価を得ても会社の経営状況がさして改善しなかった点も、イエネーとモールの共通点だったといえるでしょうか。それほど色濃く祖父の要素を受け継いだイエネーでしたが、第一次世界大戦後の苦境を乗り切るために、会社を株式会社化するとともに、工場の技術部長と事業部長を外部から招くなど、経営面で新たな取り組みを試みています。

このとき事業部長となったジュラ・グルデンが、イエネー亡き後社長をとなります。彼は会社の一層の合理化を図って時代に即したものに変革していきますが、高級磁器を追求するモール・フィシェル以来の精神はしっかりと受け継がれました。

こうした時代即応の姿勢は、ヘレンドがその後も歴史の荒波にもまれ続け、社会主義の時代には国営企業化するなど、幾多の変遷を経ることになっても、ヘレンドらしさを維持できた大きな要因であったといえるでしょう。

ハンガリーという古来より東西文化の接点にある土地から生れ出たヘレンドは、こうして約200年の間連綿と途絶えることなく、高級磁器の可能性を探求するパイオニアとして、日々新たな美を創造し続けてきたのです。

参考文献「ヘレンド展 Herendi porcelan Magyarorszagrol」アートインプレッション発行 2016年

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