マイセン / MEISSEN

“西洋磁器の母”

マイセンの磁器をひとことで言い表すならば、これに尽きるのではないでしょうか。ドレスデンからエルベ川沿いに25キロほど下った地マイセンで、1709年、西洋で初めて磁器が作られました。その技術は、他のヨーロッパの地域にも次第に伝播していき、現代に続くさまざまな名窯の起源となったのです。

一方で、西洋磁器にとって〝父〟なる存在は、東洋の磁器だといえるでしょう。6世紀に世界に先駆けて磁器の焼成に成功したのは、中国でした。その高度な技術は14世紀に朝鮮半島に伝わり、16世紀末には日本でも磁器が作られるようになります。大航海時代以降、ヨーロッパは東洋の文物を競って輸入しました。なかでも磁器は、西洋で作ることができなかったこともあり、大変珍重されます。東洋の磁器への強いあこがれが、西洋での磁器作りの情熱を生み出したのでした。

ヨーロッパと中国磁器との出会い

中国の磁器は、すでに唐の時代、9世紀中ごろから主に中近東のイスラム世界へ向けて輸出されていました。その後宋時代を経て、元の時代には、磁器の輸出量は大幅に拡大します。モンゴル帝国が東と西の世界を初めて統一したことで、中央アジアを貫通するシルクロードや、ユーラシア大陸の南岸を走る海のシルクロードが活況を呈したのです。当時のヨーロッパは、イスラムやモンゴルの築いた広大な商業圏に接続する形で、東洋との交流を間接的に行っていた状況でした。

とはいえ、中国の磁器がヨーロッパに入ってくることは、とてもまれでした。たとえば十字軍がイスラム世界から戦利品として持ち帰った中国磁器がごくわずかですが確認できる程度です。一方で、磁器に関する知識、とくに製法について最初の情報を、ヨーロッパに初めてもたらしたのは、マルコ・ポーロであったとされます。13世紀末に出版され、ヨーロッパ全土にわたってたいへんな評判を呼んだ『東方見聞録』には、タングートの町で磁器が制作されている様子が描かれています。

ヨーロッパに中国磁器についてのごくわずかな、しかも断片的な情報しか入ってこない時期は以後長く続きました。それが大きく変化したのは、ヴァスコ・ダ・ガマの登場がきっかけとなったといってよいでしょう。マルコ・ポーロの著作が世に出てから約200年後、ヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が発見されたことで、海路による東西の交流が本格的にスタートすることになったのです。

大航海時代の幕開け

ほどなくして大航海時代が幕開けします。それによって、ヨーロッパと東洋とが海上で直接的に繋がるようになります。17世紀初頭にオランダ東インド会社が組織され活動を始めると、それまでとは比較にならない規模で磁器などの交易品が西洋にもたらされるようになりました。

当時、中国から輸入された磁器は、景徳鎮で焼かれた染付が中心でした。広州から船積みされたそれら中国磁器は、はるばる喜望峰を回ってヨーロッパに持ち込まれると、アムステルダムなどの都市でオークションにかけられました。各地の王侯貴族が東洋の貴重な品を手に入れようと競い合ったことで、ヨーロッパ全域に中国の染付が広まることになったのです。こうした大量の中国磁器の流入は、ヨーロッパでも磁器を作りたいという衝動を大きく後押ししました。17世紀末ごろには、いちはやくフランスで磁器研究が始まっています。

一方で、ヨーロッパ各地の王宮では、磁器で埋め尽くされた絢爛豪華な陳列室が流行しました。その一大中心地は、ドイツでした。このことと、ヨーロッパで最初の磁器の製造に成功したのがドイツであったこととは、やはり大きなつながりがあったといえるでしょう。磁器コレクションの充実が、磁器作りの進展に寄与することになったのです。さらに言えば、大規模な磁器の輸入は、その支払いとして莫大な金銀をヨーロッパから流出させることになりました。ですから、一日も早く自前の磁器を作り出すことが経済面においても喫緊の課題となっていたのです。

アウグスト強王と錬金術師ベトガー

ヨーロッパの君主の中でも、磁器への情熱を抜きんでて激しくたぎらせたのが、ザクセン選帝侯であり、その後ポーランド王も兼ねた、フリートリヒ・アウグスト1世です。豪胆な性格で知られ、素手で馬の蹄鉄を曲げるほどの腕力を誇り、また子供の数に至っては400人近くだったとされるほどの精力絶倫の〝アウグスト強王〟。その一方で若くしてイタリアやフランスを巡ったこともあり、学問や芸術文化への強い情熱を持った君主でもありました。

アウグスト強王は、即位してからわずか一年の間に、今の価値で10億円以上を磁器の購入にあてるなど、金銭に糸目をつけることなく宮廷を豪華に飾り付けることに熱中しました。生涯で5万点の磁器を集めたともいわれます。しかしながら王の常軌を逸した磁器収集熱は、当然のことながら国家財政を大きく圧迫することになったのです。

そうしたなか、隣国のプロイセンの都であるベルリンに、まだ19歳の若き錬金術師が現れ、ヨーロッパ中に名を馳せていました。ヨハン・フリートリヒ・ベトガー。どこにでもあるような金属を黄金に変えるという、彼の行った実験は、かの有名な科学者ライプニッツの関心も引いたと言われています。

ベトガーに関心を持ったのは科学者たちだけではありません。プロイセン王もベトガーに注目し、彼を捕まえようと画策します。自由に研究できる地を求めてヨーロッパ中を巡ってきたベトガーは一足早くザクセン領へ逃げ込みました。しかし安堵したのもつかの間、結局アウグスト強王によって領内で捉えられてしまい、以後13年の間、虜囚としての生活を余儀なくされたのでした。

黄金づくりから磁器づくりへ

ベトガーがドレスデンに移送され、その地で厳重監視のもと、黄金づくりを強制されます。アウグスト強王は火の車であったザクセンの国家財政を、ベトガーの錬金術によって解決しようとしたのです。もちろん、その試みはうまくいきません。追い詰められたベトガーは逃亡を図りましたが、失敗。すぐに連れ戻され、錬金術の実験を繰り返すことになります。ところが、虚しい実験をする日々を過ごしていたベトガーに突然の転機が訪れます。黄金づくりをやめて、磁器をつくることを王から命じられたのです。

おそらくこの方針転換には、アウグスト強王の顧問であったエーレンフリート・ヴァルター・チルンハウスが深く関わっているようです。チルンハウスは著名な学者で、哲学、数学、化学など多岐にわたる分野で深い学識を有した人物でした。たとえば数学の分野では、その名を関する「チルンハウス変換」などに彼の高い功績がいまでも残されています。

そのチルンハウスですが、一説によると、ヨーロッパで最初に磁器の焼成に成功した人物であったともされます。彼は、鏡による溶融実験を行い、その過程で新しい窯業用材料を発見したとし、それを「ワックス磁器」と名付けています。そのワックス磁器なるものが本当に磁器と言えるものであったのか、いまでは現物が残されていませんので、はっきりとしたことは分かりません。ですがいずれにせよ、チルンハウスは磁器研究に並々ならぬ情熱と知識も持った人物であることは確かなようです。ベトガーがザクセンで逮捕された当時、チルンハウスはすでに磁器作りのための工房の設立をアウグスト強王に進言したのです。そのときは王に受け入れられなかったのですが、ベトガーの錬金術が成果を上げられず、行き詰まってしまった段階で、チルンハウスの構想が日の目を見ることになったと考えられます。

“白い黄金”を求めて

当時、ヨーロッパでは中国磁器には、不思議な力が秘められていると考えられていました。たとえば、ヒ素などの毒物が入った食べ物を磁器の皿に盛ると、その皿はたちまちに砕けてしまう、といった類の迷信が流布していました。白く、半透明な美しい肌、そしてその軽さ。まさに東洋の神秘を感じるその存在感と、ヨーロッパでは作ることができないという希少性が相まって、このような荒唐無稽な話が生まれたのでしょう。中国磁器のなかでも、白磁はとくに珍重され、“白い黄金”と呼ばれるほどでした。本当の黄金を作り出すことのできなかったベトガーは、チルンハウスと鉱山技師たちと協力して、新たな黄金づくりに邁進していくことになったわけです。

数年後、ベトガーらは、磁器づくりにおける最初の大きな成果を上げることになります。ストーンウェアの焼成に成功したのです。ストーンウェアは磁器ではありませんが、赤褐色の色合いをしており、当時ヨーロッパに大量に流入していた中国宜興窯で焼かれた陶器と同じものでした。当時のヨーロッパではストーンウェアも磁器だと考えられており、オランダのデルフトやあるいはイギリスなどでも製造に成功していました。

王立磁器製作所の設立

ベトガーらは赤い色のストーンウェアを、白い肌をもった磁器へ変えるため試行錯誤を繰り返します。素地の配合を微妙に変えながら何度も何度も実験をおこなったのです。そして1708年1月15日、7種の試し焼きのうち3種が、白く透き通った色をしていることを見つけました。ついにベトガーらは白磁の焼成を成し遂げたのです。この成果に自信を得たベトガーは、磁器を安定的・継続的に作り続けられるようにするために、さらなる研究を進めます。そして白磁焼成の成功から約1年後、彼はアウグスト強王に一通の書簡を送り、良質の白磁を量産できるようになったことを明言します。すぐに部下を派遣して、ベトガーの主張の正しさを確かめた王は、1710年1月23日、王立磁器製作所の設立を布告します。そして磁器製造の機密保持のため厳重管理された工房が、マイセンのアルブレヒツベルク城に作られることになったのです。

ベトガーの死

ベトガーは王立磁器製作所の管理官に任命されました。磁器製造の秘密はベトガーのほか、バルトロメイとネーミッツという2人の博士に限られました。しかし、その2人の博士のうち、ひとりには素地の配合、もうひとりには釉薬の配合、が知らされましたが、工程の全体像はベトガー唯一人が把握していました。そうすることで秘密のすべてが漏えいしてしまう事態を回避しようとしたのです。

とはいえ、このように厳重に管理された磁器製造の秘密でしたが、王立磁器製作所が始動してからも、産業として白磁を製造することはなかなかできませんでした。磁器の焼成が成功するかは、そのときどきの偶然によるところが大きかったのです。その後数年を経て、次第に安定的に磁器を生産できるようになったころ、ベトガーは体調を崩すようになります。長年にわたり文字通り囚人同様の過酷な拘禁状態に置かれながら、有害な物質を使った危険な実験を繰り返し、ストレスを大量の飲酒で紛らわしていたベトガー。その肉体と精神はひどく蝕まれていたのです。1719年3月13日、ベトガーは37歳の若さで生涯を終えました。

拡散するマイセンの秘術

ところで、先に触れたように磁器製造の秘密はマイセンの孤城のなかで厳重に管理されていたのですが、ベトガーの死の翌月にはウィーンの地で初めて磁器が作られています。その仕掛人は、オーストリアの帝国軍事官であったオランダ人、クラウディウス・インノケンティウス・デュ・パキエでした。彼は、マイセンでの磁器焼成の成功の報を聞き、すぐにウィーンにも磁器工房を立ち上げようと動き出します。

彼はまず、エナメル塗師クリストフ・コンラート・フンガーをマイセンから秘かに連れ出すことに成功します。しかしフンガーは磁器づくりの全体像を知っておらず、成果を上げられませんでした。デュ・パキエはあきらめず、今度はベトガーの助手として焼成や粘土の下ごしらえを担当していたサムエル・ステルツェルを連れ出します。さらに、ベトガーの義理の兄弟に、ベトガーの同僚が作った磁器焼成窯の紙模型を持ち出させることにも成功したのです。

 

*1725年に製造されたVaseには自らが作った磁器を見つめるデュ・パキエが描かれている(Sullivan Foundation “Fired by Passion”より

執拗なスパイ活動によって、デュ・パキエはマイセンの秘術を手に入れたわけですが、あれほど厳しく秘匿されていた磁器づくりの技法や人材が立て続けに流出していることは明らかに異常なことです。識者のなかには、この一連の情報漏えいの裏側には、ベトガー本人が絡んでいると指摘する人もいるくらいです。

絵師ヘロルトの登場

マイセンの磁器製造の技術を手に入れ、実際に磁器の焼成にも成功したデュ・パキエでしたが、予期したほどの利益を上げられませんでした。それゆえ、フンガーやステルツェルらにも約束された報酬が支払われなかったのです。その後フンガーはウィーンを去ってヴェネツィアに移り、その地で最初の磁器製造の工房の立ち上げに関与しました。

一方、ステルツェルはマイセンに戻ります。そのとき贖罪の証として一人の人物を連れて帰りました。それがヨハン・グレゴール・ヘロルト。若い画家でした。エナメル彩画を得意としたヘロルトでしたが、すぐに磁器の顔料の扱いを身に着け、マイセン磁器の絵付けを高度なレベルに高めることになりました。

ベトガーは最晩年に染付や色釉の研究に着手したのですが、それを受け継いで大きく開花させたのが、ヘロルトであったといえるでしょう。日本の柿右衛門を愛したアウグスト強王にとっても、ヘロルトの存在はとても重要なものであったといえるでしょう。

ちなみに、当初ヨーロッパへ流入した東洋の磁器は景徳鎮など中国の窯のものでしたが、1644年に明が滅亡し、中国国内はたいへんな混乱状態に陥ります。景徳鎮窯も生産を大きく減少させることになり、オランダの東インド会社は新たな磁器の供給元として日本が脚光を浴びたのでした。柿右衛門風の意匠を巧みに描き、さらには東洋の磁器の模倣を超えて、独自のシワズリー(中国趣味)の世界を作り出したヘロルト。とても野心的な人物でもあったヘロルトは、瞬く間に出世街道を登っていきました。宮廷画家に任命されたことを皮切りに、マイセン窯の絵付け部門の責任者や美術監督を歴任したのでした。

もう一人の天才 彫刻家ケンドラー

ベトガー亡き後のマイセン窯において、ヘロルトとともに忘れてはならない才能が、ケンドラーです。ところで当時、ヘロルトの活躍などでますます魅力を高めたマイセン磁器は、ヨーロッパの王侯貴族のあいだで一層珍重されるようになり、大きな産業としても確立されていきました。巨万の富を得ようと〝白い黄金〟を追い求めたアウグスト強王にとって、まさに思い描いた通りの結果となったといえます。しかし磁器に憑りつかれたアウグスト強王は、これだけで満足することはありませんでした。王は磁器コレクターとして他の追随を許さない高みに上り詰めるため、ことごとく磁器で埋め尽くした日本風の巨大な宮殿、いわゆる「日本宮殿」をつくることを構想したのです。

その日本宮殿の目玉として、マイセン磁器で等身大のさまざまな珍しい動物をつくって一堂に飾り付ける、いわば磁器人形の動物園(これをメナジェリーと呼びます)が計画されました。ですから卓越した彫刻の技術をもった人材が必要となり、アウグスト強王自ら抜擢したのがケンドラーだったのです。

もちろんケンドラーは、磁器を素材に彫刻をつくるということ自体、まったく初めてのことでした。しかし彼はすぐさまこの新素材の扱いを身に着けてしまいます。1719年から本格的に日本宮殿の建設がはじまり、ケンドラーは磁器人形の制作に全力を傾けました。アウグスト強王が狩猟で捉えて剥製にしたさまざまな動物が展示されていたモーリッツブルク城にも通い、スケッチに励んで、それらをもとに彫刻づくりを進めていったのです。

現在のマイセン磁器において、磁器人形はその高い芸術性から、まさにマイセンを代表する存在といえます。その礎を築いたのは、ケンドラーその人であったのです。結局、アウグスト強王がこの世を去ったことで、当初計画された規模の日本宮殿が日の目を見ることはありませんでした。しかしその後もケンドラーは引き続きマイセンに残り、その才能をいかんなく発揮する重要な仕事を次々とこなしていきました。

たとえば、当時マイセン磁器製作所の支配人であったブリュール伯爵のために、計2200点以上の食器からなる一大ディナーセット「スワン・サーヴィス」を4年の歳月をかけて制作しました。白鳥を中心に、イルカや女神などさまざまな意匠を随所に散りばめあしらいつつも、色遣いを抑えることで白磁の美しさを最大限に引き立たせた傑作です。

このサーヴィスはその美しさもさることながら、歴史的にきわめて重要なものです。ケンドラーがデザインした数々の食器の形は、その後のヨーロッパのテーブル・ウェアの標準となって定着することになったのです。

マイセンと日本

ところで先に触れたように、明末清初の混乱期に景徳鎮窯が衰退したことで、日本の磁器がヨーロッパで脚光を浴び、マイセンで作られる磁器にも日本美の要素が取り入れられていきました。とくに柿右衛門様式と呼ばれる、白い素地に赤・黄・緑・紫・藍の五色で絵付けをした「赤絵」は一世を風靡します。

赤絵の技法自体は、中国から日本の伊万里にもたらされたものだとされます。しかし当時中国人から買い取った技法を何度試してもうまく発色しなかったことから、初代酒井田柿右衛門らが試行錯誤を繰り返して実用化していったのです。ちょうど明が滅亡した年に始まる江戸期正保年間のことです。

こうして伊万里で作られた赤絵磁器が長崎からオランダへ、そしてそこからヨーロッパ各地へと広まっていきました。当時、ヨーロッパで出回った東洋磁器のなかでも、柿右衛門は最も高値で取引されたといわれます。アウグスト強王もこの日本の磁器をこよなく愛し、名品の数々を手に入れてコレクションにしています。柿右衛門様式の美しさを再現することが、当時のマイセン磁器にとって最重要のテーマだったのです。

柿右衛門の大きな特徴のひとつに、「濁手(にごしで)」と呼ばれる白素地があります。真っ白ではなく、土味を活かした乳白色の素地のことで、それによって赤絵が大変美しく引き立たつのです。

一方マイセンの素地は土味を排した真っ白な素地です。これが作品の大きな特徴といえます。ですが、第14代の酒井田柿右衛門によると、マイセンの初期の作品は柿右衛門で用いられるものと似た陶石を使っており、濁手のような素地であると指摘しています。

確かに最初期のマイセン磁器は、真っ白な素地ではなく、それが変化したのはベトガーが亡くなって以降のことです。濁手は焼き上げるのが難しく非常に効率の悪い手法のため、マイセンではより安定的に生産できる素地へと転換していったとみられます。いうなれば、柿右衛門の完全な再現を目指した磁器づくりから、オリジナルの磁器づくりをおこなうようになる、ひとつの大きな変化が素地にも表れているといえるかもしれません。あくまでも白く均一な素地がマイセンの美意識として確立され、現在にも受け継がれているのです。

昇華されるマイセン独自の美

アウグスト強王の意向もあって、マイセンは日本や中国の磁器の模倣からスタートしたわけですが、次第に東洋磁器とは異なる在り方を追究するようになります。それが素地であったり、もちろん造形や絵付けにも反映されました。とくにケンドラーが活躍した1730年代初頭から1770年代半ばまで約半世紀の間は、まさにマイセン独自の美が形成された黄金時代であったといえるでしょう。

ケンドラー死後も、フランス人彫刻家のミシェル・ヴィクトール・アシエといった人々によって、ロココから新古典主義へと移り変わっていくヨーロッパの美術潮流を反映した、マイセンならではの美しい作品の数々が生み出されていきました。19世紀にはいると、ハインリッヒ・ゴットリーブ・クーンのもとで、新たな装飾パターンが次々と作られます。19世紀は、中産階級が台頭して社会的に存在感を大きく高めた時代でしたので、マイセンはそうした新興の人々にも受け入れられていきました。それと同時期に、マイセンはパリやロンドンなどで開催された万博に出展されて高い評価を受け、世界的なブランドとしての地位を不動のものとしていったのです。

その後20世紀になり、とくに第一次世界大戦が終わってから、マイセンに再び黄金時代が到来します。当時、マックス・アドルフ・ファイファーの指揮のもと、たとえば彫刻家のパウル・ショイリッヒらがアール・デコ様式を反映した傑作を世に送り出していったのでした。またファイファー期のマイセンにおいて、同じく彫刻家であったマックス・エッサーの存在も忘れてはならないでしょう。彼が制作したカワウソの像は、1937年のパリ万博でグランプリを受賞するなど、大きな活躍を見せたのです。

第二次世界大戦を経てマイセンはしばらく模索の次期が続きましたが、1960年代に入ってから再び活力を取り戻します。それもやはり若く才能ある芸術家たちがマイセンに新たな息吹を浮きこんでいったからでした。たとえば、ルードヴィッヒ・ゼプナーやハインツ・ベルナーらです。ベルナーが絵のデザインをした「アラビアンナイト」のシリーズなどは、いまでも高い人気を誇ります。

マイセンは300年以上の間、ヨーロッパでもっとも長い歴史を誇る磁器窯として、ベトガー、ヘロルト、ケンドラーという偉大な先達の業績を継承してきました。

しかしもちろんそれだけではありません。常に新しい挑戦を続ける姿勢にマイセンの真骨頂があるといえるでしょう。

歴史の荒波を乗り越え、この21世紀の現在においても変わらずに、至高の美を追求するマイセンこそ、まさしく西洋磁器のトップブランドと呼ぶに相応しい存在なのです。

*マイセンに関するその他のコラムは下記からもご覧いただけます

「マイセンの誇る20世紀の巨匠たち」を読む

「マイセンのバックスタンプの変遷」を読む

参考ページ「ヨーロッパ最古の名窯 マイセンの人気シリーズ」を読む